Film Makers Field(フィルム・メーカーズ・フィールド)

FMF(フィルム・メーカーズ・フィールド)は福岡を中心に、個人映像、実験映像を行う団体です。3分間8ミリフィルムのアンデパンダン展「パーソナル・フォーカス」や実験映像を中心とした上映会活動などを開催しています。

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福間良夫Fs寄稿記事再録 

雑誌「Fs」に掲載された
「REEL OUT 映写室 開設しました。
のんきな父さん泥舟をこぐの巻」
を転載します。
2001年に電ノコ二刀流の明石氏とFMFとの共同で福岡に開設した上映スペース
の紹介記事として「Fs」編集部の依頼で福間良夫が執筆したものですが、
内容の大半はFMFの25年史を私的に振り返ったものです。

なお「REEL OUT 映写室」ではFMF主催のシネマテークとしては
2002年から2004年までパーソナルフォーカスを含む7つのプログラムを実施しています。
(現在はREEL OUT 映写室はございません)
(tsu)

「REEL OUT 映写室 開設しました。」  福間良夫

のんきな父さん泥舟をこぐの巻
 1977年5月、フィルム・メーカーズ・フィールド(略称FMF)は、福岡でシネマテークを始動した…と書き出すと、またぞろ25年の回顧と現状と展開について、となるので、今回は、これをやめて、きっと読者諸氏にはちっとも役にたたない、極めて私的なフーテージを綴ってみたいと思っているところです。

いろいろありました。1953年生まれのB級地方都市の文学・映画青年という、あまり面白くない、しかし本人としてはかなり切実な無為の日々のなかで、ともかく1977年、FMFという個人映画の上映・制作・公開を目指した集団をつくり、シネマテークを開始したのです。当時、福岡では個人・実験映画はほとんど観る機会がなかったので、とにかく個展形式でやろうと、ちょうど起ち上がったばかりのイメージフォーラムにも相談しながら、安藤紘平氏、鈴木志郎康氏と上映をはじめ、会場は常設の場所がないので喫茶店、小ホール、視聴覚室とジプシー上映の連続。
疲れるし、忙しいし、金はないしで、酒を飲んでは論争と喧嘩の日々。6年間はこの状態
でFMFのメンバーは、様々な理由で離散・集合が続きました。

 その後の1983年というのが、FMFというか私にとって大きな転換の年でした。ジョナス・メカス氏がフィルム・アーカイブ設立アピールのため来福したこと。個人的には現在のパートナーである宮田靖子と入籍、ようやく定職につき、長男が生まれたこと。
観客にとってはどうでも良い、しかしシネマテークを支える様々な人々の個人的な理由や、生き方の全ての総和が、シネマテークにニュアンスを盛り込み、肉付けしていくのです。この頃の忘れられないエピソードで、長男の保育園料を査定する諮問があって、当時FM
Fの専従として働いていた宮田に、役所が「何故、たいした収入にもならないこんな仕
事をしているのか」という風なことをたずねたらしいのです。すると宮田は「社会的要請です。」と答えた。
「Film Diary」と作品を通して想像していたジョナス・メカス氏を間近にした時、蟻と巨人ほどの違いはあるにせよ、我々は不遜にもジョナス・メカスとシネマテークという視線
を重ねられると感じていました。

■ のんきな父さん、仕事を辞めて、ハンガリーに行く
1989年、経済的にはいつも逼迫していましたが、シネマテークは格段と充実していました。
折しも、ハンガリーのレティナ映画祭から、突然インビテーションがありました。交通費
はだせないが、映画祭期間中の宿泊は主催者がみてくれるというものでした。
当時、私は34歳。仕事としてやるべきことが、段々と自身の中ではっきりとしてきた頃
でした。さりとて、生まれたばかりの長女と小学校に入ろうかという長男と、FMFという怪物をかかえています。仕事は決して多くはないとしても、定期的な収入源です。映画祭に行くなら、仕事は止めよう。迷惑をできるだけ掛けないように、完璧に引き継ぎをしてと…、あれこれ逡巡しながら悩みました。しかし何よりも、わざわざFMFに招聘をしてくれたハンガリーに、ジャパン・プログラムを抱えて、フィルム・メーカーとして、シネマテーク・ディレクターとして参加したいという思いが強かったのです。そこで、またモッコス宮田の一言。「仕事なんかやってる場合じゃない!」よし、決めた。9月のレティナ映画祭には神戸の小池さん、京都の向平君も一緒に参加してくれ、ジャパン・プログラムは非常に好評で、コンペ対象外だったのですが、特別功労賞を受賞してしまったのでした。
■ のんきな父さん、わけのわからない企画室をつくる
 1990年、それまでの仕事を辞めて、現在の会社に何となくずるっと入っていました。企画室開設なんて言っても、何をするのか、実績も何もないのですから。ただ漠然と、作り手と行政、あるいは企業をつなげていく役割が必要だと感じていました。作家の意志とは裏腹に、その社会的な経済的な個人の基盤はきわめて脆弱です。そして何より、光を透されるべき作品は繰返し観られなければならない。その作品を包み込むシネマテークは、常に、シネマテークを支える様々な人々の個人的な理由や、生き方の全ての総和によって、シネマテークにニュアンスを盛り込み、肉付けされていく。そこに注がれる時間と、記憶にとどめるべき全ての光景を、青春のイベントとして終わらせてしまう訳にはいかないの
です。
 シネマテークは箱ものではないと思っています。映写機とフィルムと暗闇があれば、い
つでもどこでも、シネマテーク!ショウルームでも、美術館の講堂でも、図書館の映像ホールでも、REEL OUT 映写室でも。何だそれ!?
■ のんきな父さん、泥舟をこぐ
福岡という小さな地方都市で実現できる企画の規模など微々たるものです。それでも、
企画室がディレクションしたり、プロデュ-スした映像の事業も地元のキュレーターや友
人たちの協力で、すこしずつですが、10年間で50本程は実現しています。FMFも90年代以降は宮田靖子をシネマテーク・ディレクターに、無理なく(かなり無理してます)、やりたいことだけ、じっくりやろうと言いながら、のんきな父さんもクセノンの映写機は重いよー、そろそろ後続にバトンをタッチしたいと
話している所へ、黒船ならぬ泥舟(?)がやってきた。
 2001年末、1996年から、電ノコ二刀流という日本映画発見をテーマにシネマテークをやっていた明石誠というシネフィルがやってきて、共同で上映スペースをつくらないか。上映形態の三本柱は、1.個人・実験映画などのノンプロフィット・フィルム 2.国内外のクラシックス 3.ドキュメンタリーでと。
この真摯さに弱いんだ。
 25年間、FMFとシネマテークに浸ってきた超リスキーな生き方を、また再びセイフティ・ネットをかいくぐって家族に強いる程、のんきでいいのか?7回の事務所移転、プライベートなものまで数えれば、200回を越すシネマテーク、一体いくらの赤字になるんだと思いながら、泥舟をどこに漕ぎだそうかと夢想するのん
きな父さん。まだまだ、恥ずかしながらのシネマテーク人生のワンシーンなのです。
 紙面がつきました。やってきたことはともかく、これからのREEL OUT 映写室につ
いては、1年後をメドにご報告をするということでご勘弁をいただけないでしょうか。
草々
Film Makers Field 福間良夫
ふくまよしお(フィルム メーカーズ フィールド 主催)
REEL OUT 映写室
EDIT[2008/06/17 02:47] 福間良夫寄稿再録Comment:0
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